優しくなりたい。斉藤和義ばりに優しくなりたい。とは言うものの、優しいって結構難しい。
甘いことが優しい場合もあるし、時には厳しいことが優しいってケースもある。どことなく曖昧で、捉え所がない。
しかし優しいことは間違いなく、その人のメリット。メリットがないと、人は付き合わない。優しくなれるのであれば、優しい方が絶対に良い。
ここで重要なのが、優しさの持ち方。内面がどれだけ優しくても、ある種仕方ない。伝わらないと意味がありません。

ぶっちゃけ表面的でも良いんです。「優しい人だ」と判断してもらえるような振る舞いを増やしていきましょう。

・人に冷たい人間だと思われて、困っている
という人にむけて書きました。
最初に結論から!
この記事のまとめ
- 優しいは曖昧。人に「優しい」と受け取られなければ、優しさではない。
- 内面的優しさよりも、行動的な優しさを重視しよう。
- ポーズだけでも良いから、優しい言動をしていくことで、いずれは内面も優しくなる。
そもそも「優しい」って何なの?
「優しい」は正義だとは思う。「フィッシュ or チキン?」みたいなノリで、「優しい or 優しくない?」と聞かれたら、そりゃ「優しい」をとる。
とはいえ優しさって難しい。女の子が友人に、彼氏の写真を見せたとします。ここで出てくる感想が、

だったら、おそらく他に褒めることがないだけ。残念。またのご応募お待ちしております。
しかし男女問わずに求めるパートナーの条件を聞いた際に、出てくる意見として多いのが、

ってもの。なんやこれ。すでに恋愛ってフィールドだけで見ても、破綻しとるやんけ。矛盾してまんがな。
ことほど左様に、優しさとは難しい。捉え所がない。参りましたね。
人に厳しいことが、実は優しさだったりすることもある。本気で叱ってあげることが優しいケース。
その人の欠点を見つけて、本当は指摘してあげるべきなのに、波風を立てたくないので黙っておく。これは優しくなかったりする。
相手のためを思って伝えているけど、外から見ればいじめているように見えるかもしれないし。
あとは本当に優しい人は、時として気が弱いと見られがち。優しいという美徳を持ちながら、なぜかナメられる。
優しい人にだけ強気に出てしまう人間は、総じてクズ。さすがにこの場合は、この整理で良いとは思うんだけど。
ここから見えてくるのは、「優しい」は曖昧ってこと。そして他人が実際に接して「この人は優しい」と判断した時のみ、優しさが長所として輝くってこと。
「優しさ」が良い方向に輝くかは、受け取る相手次第。その人が、

って思ってしまうと、それはもう「優しさ」ではないんだと思う。
優しさから出た耳が痛くなるドバイスでも、聞き手が「うざい」と思ったら、それはうざい。優しくはない。
優しい人であることはリスクヘッジ
色々と書きましたが、優しい人間でいる方が絶対に良い。優しいことには価値があるし、優しさを提供できる人間はそれだけでメリットがある。
人はメリットがある人としか付き合わない、これ僕の持論。お金を出してくれるとか話が合うとか、一緒にいて楽しいとか、何かしらのメリットがないと人は人と付き合いません。
その観点でおいて、優しさはメリットとなりえる。優しい人だから付き合う、これは論理的に成り立つ。
ただ「優しい人間」という表現はあまりに不親切だと思っています。ちょっと訂正しますね。

自分では「自分は優しい人間だ」と思っていても、周りがそのように解釈しないなら意味はない。
逆に心の中が邪悪でも、周囲の人から「あの人は優しい人だ」と思われている。これはこれでOK。
結局のところ、優しくなくても良い。優しいと判断されるような行動をして、優しい人と認定してもらえれば別に良い。
優しいは難しい。マリアナ海溝くらい深い愛情で、その時は理解できなかったけど、後々分かるものもある。
高度な優しさすぎて、受け取る側の精神レベルが追い付かない。それ故に、優しいと感知できない場合もある。

とこれまで世間の常識では、思われてきました。あくまで、優しさを受け取れない側の人間のせいだとされてきたのです。
会社の先輩社員の手厳しい説教。実は後輩への思いやりの気持ちから、発せられたアドバイス。しかし後輩は全くその気持ちに気付かない。
周囲の人間は、「後輩が分かっていないだけだ」と判断するでしょう。しかしこれは誤りなのです。
発想を、今日限りで変えましょう。カモン、パラダイムシフト。

チンパンジーに、連立方程式を覚えさせようとする。飼っている犬に、確定申告を芸として仕込む。
こんなん上手くいきません。この時に、

とキレる人はいないでしょう。いたらその人がダメ、もしくは一周回って天才。
同じです。自分なりの優しさを人に押し付け、「優しい」と感じてもらえないことに怒る。全く同じ構造です。
行動的な優しさを提供していこう
ここまで見ると、優しさには二種類あることが分かります。内面的な優しさと、表面的な優しさですね。
優しい気持ちと、優しい言動の違いってとこでしょうか。しかし表面的な優しさは耳障りが悪いな。
行動的な優しさと表現しておきましょう。
分かりやすいように例を出してみます。例えば恋愛で考えてみます。
優しい男性は、ニーズがありますが、あくまでも行動的な優しさを持っている人だけ。
内面的な優しさとは?
- 女性の言うことに対して、なんでもYesマンになっている。
- 女性の反応や機嫌を常に気にしている
こちらは内面的優しさ。胸の内に秘めているだけのもの。
行動的な優しさとは?
- ネイルをしている女性の代わりに、フタやキャップを開けてあげる
- 車道側を歩く
- 女性の髪型や服装の変化に気づき、コメントをする
- 店を予約する
- 買い物をした際に、荷物を持ってあげる
こちらは行動的な優しさですね。実際に言動として現れており、人から見える部分。
胸の内に遙かなる優しさを秘めていても、相手がそれに気付かないなら無意味。相手に実感してもらえなければ独りよがり。
ファッション偏差値高めな人がスーツの裏地とか、ソックスとかにこだわる。いわゆる「見えない部分のオシャレ」ってやつ。
なんだかんだ言っても、ジャケットを脱いだり、靴を着脱する場面で見えるもの。マジの意味で見えないわけではないし、本人もどこかで見てもらえるとは思っているはず。
しかし「見えない優しさ」は、本当に見えない。軍用機よりもよっぽどステルス。知覚されなければ、優しさとしてはカウントされません。
だからこそ僕らは、行動的優しさを示す必要があるんです。心の中でどう思っているかなんて正直関係ない。
目に見える形で、耳に聞こえる形で、言葉や行動などのサービスを提供するべきなんです。それも相手がその状況とそのタイミングで、「優しい!」と感じれるものを出荷することが絶対条件です。

大事なことなので、僕と一緒に3回音読しましょう。
人類はもっと優しくなるべき!
もっともっと人類は優しくなるべき。というよりも、行動的優しさを増やすべき。
昔気質の日本男児のように、寡黙を貫いても仕方がない。人に優しいと思ってもらえるようなコメントをしてこそ一人前。

なんて言葉もありますが、本当にその通りだと思うんです。
修道院とか診療所とか孤児院などを解説したからこそ、マザーテレサは優しい認定されているのです。優しい気持ちを持っていただけなら、「マザー」の称号なんて到底つきっこありません。
例えばあるお年寄りが、重い荷物を持って駅の階段を登ろうとしていたとします。
ここで本当に善意から、荷物を代わりに持ってあげた人がいたとします。これは間違いなく素晴らしい行為。

という気持ちから、荷物を代わりに持ってあげる。この人は、優しい人でしょうか。
僕の定義からすると、優しい人です。お年寄りを助けたいという志は一切なくて、自分の印象を良くしたいというエゴ100%だとしてもです。
逆にお年寄りの身を真剣に心配するも、声をかける勇気が出ず、何もできなかった人。こっちの方が優しくない。
お年寄りからしたら、一緒です。胸の内がなんであれ、提供してくれた行動的優しさは同じ。

レイモンド・チャンドラーの小説に出てくる、フィリップ・マーロウという探偵の有名なセリフです。
渋いっすね、良いこと言ってくれます。
会社の隣の部署の挨拶しても絶対に無視してくる、あの管理職にも読ませたい。なんなら写経させたいし、腰にタトゥーとして掘ってあげたい。
ポーズでも良いので、行動的な優しさを増やしていきましょう。優しくなければ、生ききても仕方ないらしいし。
無理にでも笑顔を作ることで、気持ちも明るくなる。体の動きに先行して、心がついてくるんですね。
同じです。人に形だけでも優しくすることで、内面まで優しい人間になれるはず。
まとめ
では、最後にもう一度この記事をまとめます。
この記事のまとめ
- 優しいは曖昧。人に「優しい」と受け取られなければ、優しさではない。
- 内面的優しさよりも、行動的な優しさを重視しよう。
- ポーズだけでも良いから、優しい言動をしていくことで、いずれは内面も優しくなる。
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