文化祭で盛り上がる人を、心の中でクソミソにバカにしたとする。この結果として、ここからの人生で、自分は文化祭で盛り上がる可能性が消える。

・無意識にマウントをとってしまうことが多い
という人にむけて書きました。

「人と比べない」というキャッチフレーズ。僕らが使うのは、自分の都合が悪い時だけ。
誰かが自分より劣っていると思ったら、ガンガンその人と比べて、バカにする。そんなことではないけない。
自己肯定感が低い人になってはいけない
陰口、噂、DNAに組み込まれている
噂は目立つことができない、陰キャの生存戦略
自分の悪い癖。自覚はしている。とにかく人を貶してしまう。しかも陰口オンリー。表立って言うことはない。
完全にヘタレ。斜に構えてるし、嫌いな人もとにかく多い。しかしもう良い年齢なんだし、こういったことを改めていきたい。
なぜそう思い至ったかというと、完全に「人の振り見て我が振り直せ」な話。陰で他の人を悪く言っている人を見ると、「ケツの穴の小せぇ人間だなぁ」と思ってしまうようになったのだ。
というかそもそも人の噂話が、徐々に面白くなくなってきた。陰口も噂話に含まれているし、噂話で誰かを褒めることってほぼない。
人はそもそも噂話を好む生き物。DNAにも組み込まれているんだそうだ。
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生物として子孫を残せる、モテる個体は目立たないといけない。でも目立ちすぎると、狙われるリスクも高まる。
かといって目立たないと生きていけるけど、モテない。この制約条件を打破する、ウルトラCが噂話や陰口。
発想としてはおもろいし、最初に思いついたホモ・サピエンスは凄まじい。今でもネットニュースなどのコンテンツとして生きている。パソコンを作ったジョン・フォイ・ノイマンを凌ぐ発明レベル。
会ったこともない奴からディスられたら一流
目立たない人が、他の誰かの悪質な噂を流して、評判を下げる。自分の評価はそのままだけど、周りを下げて、相対的に上がる。謙譲語と逆のシステム。

クラスの四軍が、クラスの一軍を妬みながらも、貶しているのと同じ。なんというのか、人としてちょっと小物な感じが漂う。
ラッパーのken the 390が「ちょっとばかし目立ち周りに褒められるのなら普通、会ったこともない奴からディスられらたら一流」とラップしていた。
犯罪を犯したり、誰かに迷惑をかけたりとか、会社や学校の中で配慮のない振る舞いをしている人が、貶されるのは仕方ない部分はある。
でもそうでないなら、誰かに貶されるというのは一種のステータスなのかもしれない。少なくとも誰かに興味は持たれているはず。
僕らが誰かを貶す理由はおそらくふたつ。その人の言動にイライラするから、もしくはその人のことが妬ましいから。
自己肯定感が低い人は、他の人の自己肯定感も下げがち
僕は自己肯定感は高い。しかも常人に比べてかなり高め。自分は価値がある人間だと疑ったことは一度もない。
仕事で注意されることは多い。というか仕事へのやる気が皆無で、メールとチャットだけ返してるなんて日もしばしば。結婚願望もなく、独身で、彼女もいない。子育ては一生したくない。
しかしそんなことはどうでもいい。とある分野でミスしても、そのミスは自分の人間性とは全く関係ないと思ってる。
世の中を見ていると、自己肯定感が低い人が多いように見える。

実は僕はこの見分け方を見つけた。めちゃくちゃ簡単。
- 自己肯定感が低い人は、他人の自己肯定感を下げようとする
- 自己肯定感が高い人は、他人の自己肯定感を上げようとする
これだけ。自己肯定感が低い人は、自己肯定感が高い人を「なんでそんな状態で自己肯定感が高くいられるの?」と冷笑している。
この事実に気づいた時に、「誰かを貶すのはやめよう」って思った。僕は自己肯定感が高い、だから誰かの自己肯定感を上げれる人間にならないといけない。
他人をバカにすると、人生がつまらなくなる
オードリー若林「ナナメの夕暮れ」から学ぶ
オードリーの若林のエッセイ「ナナメの夕暮れ」。僕はこのエッセイが大好きで、何度も読み返している。(https://amzn.to/4e7DS0s)
僕はこの歳になっても、まだ自己分析が終わらない。自分というものが、まだ掴みきれていないのだ。
何が好きで、嫌いなのか。得意なこと、苦手なこと。どんな状況であれば楽しめるのか。興味のあるものはなんなのか。
色々考えた結果、思い切ってキックボクシングを最近習い始めた。子供の頃に空手教室が近所にあって、友達に誘われたことがあった。
同じマンションで通っている同級生も多かった。でも興味が湧かず、そして痛いのが嫌で行くことはなかった。そんな自分が31歳になってから格闘技を始めた。ビビるくらいに楽しい。
中学校の時に「はじめの一歩」を、暗記するくらいまで読んだ。ブルース・リーはいまだに心の師匠。予兆はあった。今になって伏線回収ができた。
オードリーの若林のエッセイも、自己分析と内省、そしてそこからの気づきに溢れている。だから読んでいて、共感と発見がある。
他人をバカにすることは、デメリットが多い
他人をバカにすると、自分に返ってくる
このエッセイの中で、「他人をバカにすること」の弊害が書かれている。他者に向かって剥いた牙が、翻って自分に刺さってくる。誰かをバカにするってのはそういうことだ。
誰かの価値を下げて、自己肯定することはとても楽。だから癖になる。
血の滲む筋トレでできたボディを、SNSにアップして自己肯定する。そのSNSの投稿を見て、「こいつ痛すぎw」ってバカにして自己肯定する。同じ自己肯定するにしても、後者の方がかかる労力は圧倒的に少ない。
「じゃあコスパもタイパも良いやん、バカにしまくったら良いやん」と思い至るのは、あまり短絡的。
誰かをバカにすると、自分が楽しめなくなる
もし仮に、Aさんが以下のようなことをバカにしてみたとする。
- 筋トレすること
- 海外旅行に行くこと
- 文化祭で盛り上がること
- SNSで結婚報告をすること
- スタバで村上春樹を読むこと
- ワンピースで感動すること
この時は良い。悦に入ってるもんな。しかしここからが人生難しくなってくる。
「認知的不協和」って心理学用語がある。自分が認知していることにふたつの矛盾する考えや行動がある場合にストレスを感じること。
高い木になっているブドウを食べたいキツネ。でも高くて、届かない。結局食べれなかったキツネは「ふん、どうせ、あのブドウは酸っぱいに決まってらぁ」って解釈をする。
これが認知的不協和。人は自分の中で矛盾することがあると落ち着かなり、解釈を捻じ曲げだす。
文化祭で楽しむ人をバカにしたら、一生自分は文化祭を楽しめなくなる
先ほどの色々バカにしまくったAさんは、次第にこんな状況になる。
- 筋トレしたくてもできない
- 海外旅行に興味出たけど行けない
- 文化祭で盛り上がれない
- SNSで結婚報告ができない
- スタバで村上春樹を読めない
- ワンピースで感動できない
だってそうでしょ。散々バカにしてたことを、楽しもうとするなんて矛盾しまくってるもん。
そしてさらに怖いのが、疑心暗鬼になること。「もうやめて、とっくにライフは0よ!」状態なんだけど、もうちょっと聞いてほしい。
誰かをバカにすると、自分への呪いになる
Aさんは一人で家で映画を観るのをこよなく愛しているとする。もしかしたらそのうちに、「誰かが、根暗だとか、陰キャだとか、バカにしているんじゃないかな?」と思うようになるかもしれない。
誰かをバカにしまくってると、他の人も同じように誰かをバカにしているはずだと思ってしまう。そしてその矛先はAさんかもって思い込む。
「え、人生全然おもんないねんけど」って激ハードモードに突入してしまう。

こう書かれていた。とある行為が、自分には楽しく思えないのは事実。しかしそれを楽しむ人もいるのもまた事実。だから不必要に誰かをバカにしてはいけない。
バカにすることは呪い。そのバカにした対象物は、自分の人生で味わえる可能性が潰える。
自分の評価軸で生きるだけ
「誰かと比べない」を、都合の悪い時だけ使わない
他の人が劣っていると感じた時にこそ
他の人をバカにしないためには、自分の評価軸を自分だけに適応させなければいけない。
「誰かと比べない」という言葉が近年キーワードになってる。SNSで他の人のキラキラした生活ぶりを目にする機会が増えた。
パートナーとオシャレなディナーを食べたり、高い買い物をしたり、羨ましくなる光景が切り取られている。しかしそんな瞬間はその人の人生にとって一瞬。
他人は他人で、自分は自分。比べずにただ自分のベストを尽くすべき。この考え方は正しい。
ただこれが他人が自分よりも優れているように思える場合だけに限定してはいけない。つまり他の人が、自分よりも劣っているように思えてもバカにするのは厳禁。
マウントをとる人は、他人と比べないわけがない
自分が劣等感を抱きそうになった場合だけ、僕らは秘技「人と比べない」を発動する。しかし誰かにマウントをとれる状況になった瞬間は、僕らは自分と比べまくる。そう、僕らは、普通に性格が悪い。
タワマンに住んでいる同世代の存在を知ったら、「まぁ今の自分の家はアクセスも良いし、自分のライフスタイルにもあってるから問題なし」と解釈する。
しかしスニーカーにこだわりがある人が、ボロボロのスニーカーを履いている人を見たとする。
「この人はこれで行きたいところに行けてるし、問題ないんだろう」って解釈しない。「ダサい、終わってる、むしろ始まってもない」って下に見るはず。
こだわりがある分野、自信がある項目、容姿、収入、上の存在と比べないなら、下の存在とも比べない。
劣っていると思った人にはゴリゴリにマウントをとる人が、格上の存在を見た瞬間に「人とは比べるもんじゃない」と思考を切り替えるのはちょっと無理がある。そもそも比べないのがベスト。
「みんな違って、みんな良い」を、万人に対して起動させる
「みんな違って、みんな良い」のミラクルパンチラインで有名な、金子みすゞ。金子みすゞと、いすゞ自動車以外で、「ゞ」をお目にかかったことはない。
「みんな違って、みんな良い」は有名だけど、その前の部分を知らない人も多い。鳥は空を飛べるけど、私みたいに地面を走れない、逆も然り。
自分の体をゆすっても綺麗な音は出ないけど、鈴よりも歌を知ってます、逆も然り。こんな内容。「私と小鳥と鈴と」って童謡なんですな。
「斎藤飛鳥は、人と鳥が入ってる」とか、「広瀬すずは、人と鈴のミックスだ」とか、そういうヤジはなし。
自分を守るためだけに、「みんな違って、みんな良い」を起動させるのはマナー違反。他の人をバカにしそうになった瞬間にこそ、「みんな違って、みんな良い」のスイッチを入れる。
金子みすゞ、沁みる。「私と小鳥と鈴と」で使われている語彙は平易なものばかり。それでも心にジンとくる。
GLAYの歌詞みたい、シンプルな言葉で響かせてきやがる。ちなみに「金子みすゞ」はペンネーム。本名は「金子テル」なんだって。
誰かをバカにする様は、きっと誰かに見られている
思っているほど人は自分に興味はないけど、思っているほど見られていないわけでもない
サラリーマンになって、納税者になって、扶養家族から飛び出して、8年弱。生き馬の目を抜く、会社生活で得た学びがある。

自意識過剰の人には、前半部分を送りたい。そして前半部分を受けて、思うがままに生きようとする人には、後半部分をワンツーで決めたい。
髪型を変えても、周りは気づかない。でも太ったら、すぐに気づかれる。
値段の高い服を奮発して買って、着ていっても誰も気にも留めない。でも破れていたりほつれている服を着ていたら、容赦なく見られている。
こういった理不尽で、暴虐な世界が人間社会。ポジティブな面は軽んじられる。ネガティブな面は鬼の首を取ったかの如く、槍玉に挙げられる。
僕らが誰かを肯定的に見たり、褒めたとしても印象には残らない。しかし誰かをバカにしたり、差別するような発言は、何年間も覚えられてしまう。
誰かをバカにしないのが、結局は自分のためになる
誰かをバカにしていると、口には出さなくても、態度や言動の端々に滲み出てしまう。もし口に出してしまったら、一撃で「この人は嫌な人だ」と烙印を押される。
烙印をすぐに押してくる人に限って、誰かをバカにする度合いは高いんだけど、一旦置いておく。
誰かの言動をバカにすると、そのバカにした項目を自分で楽しめる可能性は0になる。友達同士でBBQをしている人を斜に見てしまうと、自分は誰かとBBQをしても心から楽しめなくなる。
誰かの言動をバカにすると、その様をまた別の誰かが見ている。「誰かのことをバカにしている僕ら」という存在が浮き彫りになり、周りから嫌われる。


まとめ
では、最後にこの記事をまとめます。
この記事のまとめ
- 他人をバカにすると、自分の人生もつまらなくなる
- 「みんな違って、みんな良い」は、自分がバカにしている人にも当てはまる
- 誰かのことをバカにしている様子は、意外と周りに見られている
サラリーマン生活をより豊かにするための情報に特化し、ブログの記事を投稿しています。会社員をしながら、毎日少しづつ書き溜めております。
この記事が面白ければ、是非他の記事も読んでいって下さい。貴重な時間を頂きありがとうございました。ではでは!